
2025年1月、父はがん宣告をされました。
このブログでは、食道がんの闘病の様子を時系列で記録しています。
同じような境遇の方の何か力になれば…と思っております。
2024年末、父から体調不良の連絡
2024年12月30日
父から、「体調不良が続くから年明けに内視鏡検査を予約してきたよ」という内容で連絡がきました。

主な症状は、食べ物を飲み込んだときに詰まりそうになったり痛みを感じる、ということ。
食べ物が食道をスムーズに通らない、胃に落ちていかないようでした。
生活に支障が出るようになり、本人も「これはちょっと…」と思ったのでしょう。
年始、1月14日に内視鏡検査の予約をとったと教えてくれました。
父は1人暮らしです。
母は10年以上前に亡くなりましたし、そもそも離婚しているので一緒にはいません。
検査まで2週間以上もあるのに、まともに食事ができない状態で本当に大丈夫なのかと心配でした。
でも、父は極力私達の世話にはなりたくないと考えているようで…
「何かあれば言ってね」という感じで、こちらも検査結果の連絡を待つことにしました。

ネガティブに引っ張られそうになるのであまり検索はしないようにしました。
2025年1月、検査結果の連絡
私と父は、生き別れ状態でした。
再会したのは2021年の春の終わり頃。
再会してから、父には毎年子ども達の写真入りの年賀状を送っています。
2025年元旦、年賀状が届いた報告と新年の挨拶を交わしました。

この時も、検査が不安だとは言っていましたが、胃酸を抑える薬で症状が少しマシになっているようでした。

実際に良くなっていたのか
そう言い聞かせていたのか、、、

そして2025年1月9日
「予定より早く内視鏡検査を受けてきた」と連絡がありました

「食道癌だって!」
語尾に「!」をつけて明るく伝えてきた父の心の内を思うと私の胸はギュッと苦しくなりました。
近所の個人病院で内視鏡検査。
「腫瘍がある」「細胞を検査に回す」「大学病院に引き継ぐ」と言われたそうです。
そして、ほぼ食道がんで間違いないだろうとのことでした。
頼める身内がいないと言ったのは、両親が離婚した時に私が母の方について行き、今まで離れていたからでしょう。
気を遣ったのかもしれません。
確かに、色々ありました。
私たちは普通の親子ではなかったかもしれません。
ですが、私の心には何も迷いはありませんでした。
「ついて行く」
その返事しかなかった。

父は定年退職した後、ファミレスやホテルのフロントのバイトを経て、この時はコンビニで働いていました。
定年まで務めた「先生」という仕事。
若い学生たちには好かれていたし、プライベートでも飲み会を開催し振る舞ったりと、楽しくしてるようでした。
でも、堅苦しい職種ではあるので、父にとっては少し息苦しかったのかもしれません。
もともと接客業が好きな父にとって、コンビニでのバイトは楽しいらしく、とてもイキイキとしていました。
娘である私の気持ち
がんと聞いて、とっさに考えてしまった最悪の事態。
連絡を受けてすぐ、電話をかけた時。
電話に出たお父さんの声はいつも通りで、その声を聞いたら涙が出ました。
がん宣告されて1番ショックなのはお父さん本人なんだから、私が先に泣いちゃだめなのにね。
私は両親の離婚で父と離れ、きちんと再び会えたのは2021年の春の終わり頃でした。
再会した時、あの頃よりは年老いたものの、変わらない姿にとても緊張し、またとても嬉しかったのを覚えています。

お父さん
お父さんは、昔から姿勢が良くて、歩くのが早くて、せっかちで
おしゃれで、見た目にもちゃんと気を遣ってて
端的な話し方や 笑い声、笑顔も、やっぱりあの頃と変わってなくて
あぁ、元気そうで本当によかった
楽しそうに生きてて本当によかった
会えて嬉しかった
言葉にはしなかったけど、心からそう思ったんだよ
.
お父さんが食道がんだと聞かされて、どうなっちゃうんだろうと不安になった
同時に、私にできることは何だろうと考えた
お父さんは今までも自分のことは自分でやって生きてきたから、特に困ることはないかもしれない
それでももし、何か困ったことがあって、そのために私にできることがあるのなら
手伝いたい、力になりたい、そう思っているよ
お父さんとお母さんは本当に色々あったよね
私とお父さんも色々あった
それでもお父さんは私のお父さんで、私はお父さんのこと大好きだった
お父さんのことを好きと言うと、お母さんが悲しんだり怒ったりするだろうから言えなかったけど
お母さんのことも大好きだったから傷つけたくなくて、お母さんや家族の前では何食わぬ顔をしてたけど
私の家族は両親の問題で色々あったから、お母さんはお父さんが嫌いだっただろうね、でも、
それでもやっぱり、私にとっては世界でたった1人のお父さんだから…
.
2021年の春の終わり頃、
47都道府県ある中でバラバラだった私達があの日再会したのは、きっと何か意味があったのかもしれない
そう思わされました。